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ふるさと自慢館

  • 施設のご案内

わたしたちの郷土西会津町は、古くは優れた土器が出土する縄文集落でした。
江戸時代には越後街道の三大宿場として、大名が宿泊する御本陣が常設される特別な宿場町として栄え、幕末になると、東北の松下村塾とまで云われた学塾「研幾堂」が開設、歴史に名を刻む多くの門下生を輩出しました。
当館は、この類稀な歴史や文化、研幾堂から生まれた偉人達を歴史的な資料を交えて紹介し、西会津町の素晴らしさを後世へ伝える小さな資料館として、また、地域の皆様が多目的に利用できる交流の場として開設されました。

  • 建物について

ふるさと自慢館として生まれ変わったこの蔵は、江戸時代末期まで越後街道野澤宿における修験道の道場であった大正院(大聖院とも表記する)があった場所です。
大正院は原町村の村社である熊野神社の宮司であると共に、大山祇神社に参拝する人々の先達(ガイド)をも務めました。
のちに野澤宿検断職として問屋の機能を果たし、六斎市では御用屋敷になりました。正月十三日の初市では、この蔵の上から俵を落とし、原町村が南北に分かれて、俵を引き合いました。
明治中期の写真でも確認できる、この蔵は、明治末期から大正初期にお蔵入西方村(現三島町)から野沢に移住した小柴家の手に渡り、十年ほど前まで米穀店として活用されていました。

  • 展示内容

特 別 企 画 展

洋菓子不二家のペコちゃん

不二家ペコちゃんの名前の由来は、子牛の愛称「べこ」を西洋風にアレンジしたもので、首を振る様子はまさに、この町にある会社が全国一の生産量を誇る張子の“赤ベコ”そのもの。
ペコちゃんのルーツは赤ベコでは・・・ということで他では見ることのできない珍しいペコちゃん人形を展示し、張子とあわせて紹介しております。
お子様からご年配の方まで、大変ご好評を頂いております。


063
天地人と西会津 (2009年特別展示)

2009年、大河ドラマで人気を博した、“天地人”
この天地人で描かれた歴史の舞台裏で関わった当地の人々を大パネルでご紹介しております。
ドラマで描かれている、上杉謙信、石田三成らの「義」と「愛」の精神が、現代の西会津の人々へ脈々と受け継がれていることが感じられます。
歴史が好きな方はもとより、ドラマに感銘された方にも大変興味深い資料となっております。


062

平 常 展

西会津町が誇る類稀な歴史・文化・偉人を一堂に会し、パネル、歴史的資料とともに紹介しております。我がふるさとの自慢をご堪能ください。
(以下は展示内容の一部です)

東北の松下村塾とまで云われた研幾堂


歴史に名を刻んだ研幾堂5人衆

 ・野口英世の手を手術した医師
 ・婦人束髪運動による美容院発祥の礎
 ・アダム・スミス「富国論」の翻訳者
 ・自由民権運動と会津初の衆議院議員

優れたデザインの土器が出土する縄文集落


春日部たすくの創作活動が行われた町

御本陣が常設されていた野沢宿

金の草鞋に詠まれる風情のある宿場町

 
 ・三味線の野沢の宿は旅人の
        袖をむせうにひいてとどめる



町の風土が育てた門人墨客

奈良国立博物館の吊灯篭はこの町から

本郷焼き絵付けの完成者

                     
etc

  • ご利用案内

ご利用案内

開館時間
    午前10時~午後4時
休館日
  毎週火曜日 年末・年始
所在地
  〒969-4406
  福島県耶麻郡西会津町野沢字原町乙2147
お問い合わせ
  西会津町商工会
  TEL:0241(45)3235

各種会合、芸術展などご利用ください




  • MAP

ふるさと自慢館 所在地

福島県耶麻郡西会津町野沢原町乙2147

 

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〒969-4406 福島県耶麻郡西会津町野沢字下條乙1969-26
TEL:0241-45-3235 FAX:0241-45-3617 E-Mail :nishisho@nct.ne.jp

This entry was posted on 2014年11月18日, in .

ふるさと自慢偉人伝

渡部思斎(わたなべしさい) 1832-1889
明治の松下村塾と言われた学塾「研幾堂」の創始者

天保8年(1832)野沢原町生まれ。
1850年代初期、会津藩日新館・医学寮で医学を学ぶ。
慶応2年(1866)、学塾「研幾堂」を設立。法政・経済・文学・医学の4科目を設け二百数十名の子弟を教える。
明治6年、野沢小学校初代校長
明治11年、県議会議員に当選
明治15年、会津三方道路問題を契機に民権運動指導者として活躍。
以下に記す偉人は、全て研幾堂で学び育った塾生である。

「研幾堂」とは・・・
病気・社会・人間の能力等、機微(容易にうかがい知ることができない微妙な事情・趣)を調べ明らかにする
渡部鼎(わたなべかなえ) 1858-1932
野口英世の手を手術し、英世が医師を志すきっかけを作った恩師

安政5年(1858)、渡部思斎の長男として生まれ、16歳の時に大学南校(今の東京大学医学部)に入学し医学を習得。
明治10年、18歳で警察医や陸軍軍医試験などに合格し、警視庁第2病院勤務、陸軍軍医などを歴任。コレラ病新治療法などを発見する。
明治18年(1885)、27歳の時には「婦人束髪会」を結成現在の理容の礎を築く。
同年末に渡米、カリフォルニア大学医学部で学び、ドクトル・オブ・メディシンの学位を受け、卒業と同時にサンフランシスコで日本人初の開業医となる。
明治23年(1890)、父思斎の死により帰国。その後、会津若松に会陽医院を開業、英世が手術を受けたのもこのころで、明治25年、英世が16歳の時のことである。
明治35年(1902)と翌年の総選挙に若松市選挙区から立候補し、衆議院議員も務めた。
石川暎作(いしかわえいさく) 1858-1886
富国論の翻訳者

安政5年(1858)野沢本町生まれ。
明治4年(1871)研幾堂入塾。
明治6年(1873)横浜の高島英学校に入学。
明治8年(1875)福沢諭吉の慶応義塾に入門。
共立学舎で数学を教えながら、英語を学習。共立学舎閉鎖後、大蔵省勤務。
この頃より病気になり、体調が良くなかった。
明治15年(1882)4月イギリスの経済学者アダム・スミスが書いた「富国論」をわが国で初めて日本語に翻訳した。
渡部鼎とともに「婦人束髪会」を結成するなど、日本の教育と文化にも貢献した。
明治19年(1886)以前より煩っていた結核が悪化、その才能を惜しまれつつ、帰らぬ人となった。享年28歳。
野澤雞一(のざわけいいち) 1852-1932
「英国法律全書」を翻訳した法律家

嘉永5年(1853)、野沢原町生まれ。
慶応2年(1866)研幾堂入塾。
16歳の誕生日に蘭学を学ぶため長崎へ向かう。途中京都にとどまりここで会津藩士に採用、藩洋学所で英語を学ぶが、鳥羽伏見の戦いに巻き込まれ、投獄。獄中で山本覚馬の日本再建の建白書「管見」を執筆。
釈放後、大阪開成所(現在の京都大学)、収文館(現在の横浜国立大学)で学び、「英国法律全書」を翻訳発刊。
明治8年(1875)、新潟税関長代理に就任
その後渡米し、エール大学で法律を学び、法律学士となり、帰国後弁護士として活躍。
明治22年(1889)、再渡米し、ニューヘブン大学で学ぶ。
帰国後、神戸地裁判事を経て公証人となり、銀座に公証人役場を設けた。
山口千代作(やまぐちちよさく) 1858-1906
自由民権運動の指導者

嘉永元年(1848)尾野本森野生まれ。
明治3年(1870)研幾堂入塾。
明治5年(1872)24歳で尾野本村戸長となる。
明治11年(1878)全国に先駆けて福島県に議会ができ県議会議員となる。
明治12年(1879)県会副議長
明治13年(1880)第2代目県会議長
明治14年(1881)県会副議長
この頃、板垣退助らによる自由党の誕生、これに呼応した活動や自由党会津部創立、福島自由新聞の創立、発刊と多忙な日々を送る。
明治15年(1882)1月、自由党撲滅の指名を受けた三島通庸(みちつね)が福島県令(知事)として赴任、4月から始まった福島県議会は自由党が主導権を握っていた為、三島県令は議会に1度も顔を見せず、全国県政史上前例の無い「全議案否決」の結末で議会を閉じた。(福島事件)
小島忠八(こじまちゅうはち) 1856-1922
自由民権運動の闘士

安政3年(1856)野沢原町生まれ。
明治元年(1868)戊辰戦争に13歳で越後口の戦いに参戦。
明治2年(1869)研幾堂に入塾。
明治4年(1871)大阪・東京に遊学し、測量学と法律学を学び、翌年帰郷。
明治6年(1873)測量社を設立。又、軍学に通じ、自宅を梁山泊と称して孫子・呉を講義。
明治9年(1876)再び上京し、曙新聞社に入社。自由民権権思想を身につける。
明治15年(1882)、県議補欠選挙に当選。
同年、会津三方道路会開削工事着手が示達、山口千代作と共に反対闘争の先頭に立つ。

偉人伝の詳細は「ふるさと自慢館」にて公開!!

This entry was posted on 2014年8月4日, in .